願證寺について

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真宗高田派 龍谿山 願證寺の歴史

【寺伝】願證寺は本願寺第八世蓮如上人の息男(9男)蓮淳によって伊勢国桑名郡長島町香取郷杉江に創建された。
元亀元年(1570年)よりこの地方に一向一揆が起こり、天正2年(1574年)に織田信長によって鎮圧された。この時、近江国日野地方の領主であった蒲生氏郷も出陣しており、願證寺住職を自領内に伴って帰り、一寺を与えて再興させた。
その後天正12年(1584年)、蒲生氏郷は伊勢「松ヶ島」へ移封され、天正16年(1588年)さらに「城」を「松阪」に築き、入城。城下町をつくると、氏郷の招きに応じて願證寺は近江日野より伊勢松阪に移住した。
※現在の松阪市日野町は近江商人(滋賀県日野町)によって町づくりの中へ位置づけられた。正徳5年(1715年)頃には、浄土真宗高田派に転じている。

■ 蒲生氏郷と松阪

天正12年(1584年)6月
松ヶ島城へ(12万34石)用材を丹生より伐り出す。
29歳
「レオ」「レオン」「レアン」の洗礼名を受ける。
30歳
「松ヶ島侍従」と呼ばれる。しばらく戦いのない平穏な日々が続く。
天正16年(1588年)
「松阪城」築城に取り掛かる。
33歳
本格的な城下町経営が始まる。「松阪少将」「北野茶会」に招かれる。
各町々、各寺々松島より移る。
天正18年(1590年)
「松阪城」へ入城。
「願證寺」が近江日野より移る。
35歳
小田原征伐に出陣。
※「奥州仕置」大名人事で会津に移封。(黒川城)42万石。
文禄元年(1592年)
黒川城から若松城へ。城下町経営 73万4千石。
37歳
朝鮮出兵が始まり、肥前国名護屋へ。
文禄2年(1593年)
名護屋陣中で発病。
38歳
8月大阪に戻り、11月会津に帰る。
文禄3年(1594年)
上洛、伏見蒲生邸で療養。
「会津宰相」92万石となる。
文禄4年(1595年)
2月7日、氏郷短い生涯を40歳で閉じる。

■ 由来

【寺宝】

・本尊 阿弥陀如来立像(木像)
寺伝によると、蓮如上人から蓮淳に一寺創設の時に授けられた。慈覚大師作で氏郷公の念持仏とも伝えられている。

・親鸞聖人画像(紅葉の御影)
寺伝によると、上記「阿弥陀如来立像」と共に蓮如から蓮淳に授けられたと伝えている。
また、この絵図の裏書に正徳5年専修寺 第17世 円猷上人花押が認められるところから、高田派へ転派した時期がうかがわれる。

【付記】

歴史・寺宝については当山十四世住職蒲生感隆の作成「願證寺略縁起」と松阪・日野の「蒲生氏郷」についての記録を基に記している。